精神科の病棟をお年寄りの死に場所にしたくない
「宅老所みんなのあもり」は長野県長野市の中心地から10分ほどの住宅地にある。あもり(安茂里)とは古くからの地名だ。運営しているのは「特定非営利活動法人グループもみじ」。理事長の田中正廣さんは長らく精神科看護の現場で精神科リハビリテーション看護を経験してきた人でもある。
田中さんが2000年に特定非営利活動法人「グループもみじ」を立ち上げ、県内で認知症対応型第1号となる「宅老所みんなのあもり」(以下、あもり)を開設した理由は一つ。
「認知症高齢者のケアを何とかしたい。精神科の病棟を認知症高齢者の死に場所にしてはならない」という思いからだ。田中さんが病院勤務の頃、社会的にも認知症の理解はすすんでおらず、認知症高齢者が続々と精神病棟に送り込まれていた時代であった。
あもりは認知症専用のデイであり、定員は6人で始めた。その後、2002年には2ヶ所目の「宅老所さくら」(認知症対応型通所介護)を、2006年には松本市に「宅幼老所夢いちもんめ」を開設。宅幼老所とは文字通りお年寄りから乳幼児・障害者(児)までを受け入れる。さらにあもりは、2006年に改正介護保険で新しく設けられた小規模多機能型居宅介護所となっている。
現在、「宅老所さくら」と「幼宅老所夢いちもんめ」では自主事業として24時間の対応も行い、できるだけ長く在宅生活が継続できるように支援している。
長年、一緒に過ぎしてきた方たちに見守られて逝きたい
訪問時、「宅老所さくら」の一室には、看取りが始まっているスミ子さん(仮名)が静かに横たわっていた。元気な頃は頻繁に徘徊をしてスタッフを困らせることもあったが、数年前からは要介護5で、ほぼ全介助。夫の希望もあって宅老所での24時間対応となっているという。
「これまで長い間、ご主人はスミ子さんの介護を1人で担ってきました。私たちはスミ子さんの状態にあわせて、平日は『さくら』に泊まってもらい週末の夜は自宅に戻って2人で過ごせるような支援をしてきました。スミ子さんにとって自分の家にいる喜びは何ものにも変えがたいし、何よりも夫婦2人の希望だったからです」(田中さん)
ところが、毎日妻の元に通ってきていた夫が体調を崩し、その上手術を受けるなどしたため、介護の重負担は誰の目にも明らかとなる。施設入所の話しも子どもたちから出たのだが「夫婦だから最後まで妻を見るのが自分の役目」と夫は譲らない。宅老所はさらに細やかに、24時間体制で支えてきたが、最期の時期が確実に迫ってきた。
田中さんは夫と話し合った。
「最期は自宅で過ごしますか。どうしましょうか」
「ここではダメなんですか」
「でも、自宅のほうが良いのではありませんか」
「自宅では何もしてあげられない。ここならば職員はもちろんですが、他のお年寄りとも最期まで一緒に入られる。ここでお願いします」
「では、その時がきたら、家族にここに泊まりこんでもらってもいいですよ。亡くなられたら自宅に戻る前に他のお年寄りと最期のお別れをさせてください。ここで長い間、一緒に過ぎしてきた方たちだからそうしたいと望んできるでしょう」
こんなふうに夫と宅老所が一緒になってスミ子さんを看取るという約束をしたのだ。
人は安心感を覚えると、今度は「生きたい」と願う
そもそも、「グループもみじ」の看取りはあもり開所後、間もなく始まっている。しかもはじめに看取ったお年寄りは、MRSA感染の認知症高齢者であった。家庭の事情で自宅では介護ができないため、あもりに委ねられたのだ。
スタッフの葛藤は深く、受け入れるか否かの議論も激しかったという。それでも最終的に受け入れたことで、感染症に対応する一例目として学ぶことも多かったと、田中さんは振り返る。MRSA感染のお年寄りには専用スタッフを配置し、別棟の一室での介護を徹底したのだ。
「不思議なんだ。やす子さん(仮名)が亡くなったのは日曜日の朝なんだけれど、その日にはスタッフ会があるから全員集まったのです。関わっていたスタッフはもちろん、必然的に全員がお見送りできたんだ。私にはやす子さんがその日を選んで亡くなったとしか思えないんだ」
「グループもみじ」では開所から8年間を経て28人を見送った。その多くが最期まで在宅での暮らしを選んでいる。宅老所に通いながら、必要に応じたサービス(泊まりや訪問介護)を活用することで安心感を得ることができたためだ。人は安心感を覚えると、今度は「生きたい」と願う。こうした一瞬一瞬の積み重ねが明日につながると田中さん。
「私は人がどんな姿であったとしても、生きていること自体、存在そのものに価値があると思います。最期を見届ける介護とは、その人の心に届かなければ意味がないのですよ」
「おまえがいてくれて安心だがや」というお年寄りのことばこそ、生きる「希望」そのものなのだ。
(2008年7月掲載)
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